かくのごとく、我思えり

京大生が、本の感想や勉強のことを書いていきます。

ものに書いて考えるか、宙で思考するか/読書感想文『知的生産の技術』

知的生産の技術/梅棹忠夫/岩波新書

 

梅棹忠夫氏は京大で民族学の研究をしていた人だ。そのためか、大学でレポートの書き方の説明がある際には、彼の書いた『知的生産の技術』がよく紹介されていた。そのため、一度読んでみたいと思っていたが、このたびついに読むことができた。

 

そもそも知的生産とは何なのだろうか。著者はp.9でこう説明している。

 

知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら―情報―を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ、くらいにかんがえておけばよいだろう

 

つまり、本やレポート、報告書、ブログを書くことはすべて知的生産である。知的生産の技術は、現代人に不可欠なスキルなのである。

 

著者の根底にあるのは自分が凡人であるという意識だ。天才のようにテクニックなど意識しないでも巧みな知的生産をするという所業ができない以上、技術を編み出し、その技術を駆使して知的生産をしようと著者は考えた。

 

こういう意識はとても大切だ。何の策もなしに天才に挑んでも勝つことはできない。自分が凡人だと自覚しているなら、どう振る舞えばいいのかをよく考えることが必要だ。

 

その思考というものについて、著者はp.27で次のように述べている。

 

ことの筋道の透察や、論理のくみたてにおいては、すくなくともわたしは、文章にかかないで、宙でかんがえるほうがうまくゆくことがおおい。

 

この文に、実は僕はかなり驚いた。僕は宙で考えるよりも何かに書きながら考えるほうがうまくいくことが多いからだ。

 

確かに宙で考えることのメリットもある。それは柔軟な思考ができるということだ。頭のなかに考えがあるうちは考えが完全には言葉になっておらず、様々に変化しうる。形が変化するという点では、宙での思考は水のようだと言っても良いだろう。

 

一方、何かに書きながらの思考は氷のようなものだ。変化の可能性に乏しい。一度紙に書いてしまったら、頭の中の考えではなく、その書いた内容をもとに思考してしまう。しかし、書かれたものは固定されている。そのため、思考に柔軟性がなくなってしまう。

 

さらに、何かに書いた思考はその人の言語能力に左右されてしまう。例えば僕の場合、言語能力が低いので10考えたとしたら9ぐらいしか文字にすることができない。9の文字から考えて文字にしたら、今度は9×0.9で8.1の文字になるというように、どんどん思考が乏しくなってしまう。だから、最終的に文字にしたあと、「あれ、僕はこんなことしか考えてなかったっけ」と思ってしまう。宙で考えれば、10のまま思考することが可能だ。

 

それでも僕が何かに書きながら思考する理由は、僕の記憶力のなさにある。ある主張の根拠を5個考えたとしたら、5個目を考えるときには最初の2つは既に忘れている。宙で考える際に考えたことを忘れてしまうロスと、書きながら考える際の思考を言語化するときのロスを天秤にかけた結果、書きながら考えることを選んでいる。きっと著者は宙で思考しても考えた内容を忘れることはあまりないのだろう。うらやましい限りだ。

 

以上の話に関連しているが、著者はp.61でこう述べている。

 

自分の知識や思想を、カードにしてならべてみると、なんだ、これだけか、という気がして、自尊心をきずつけられるような気がするのである。

 

この話はとてもよく分かる。ブログや大学に出すレポートを書き終わったあと、いつもこう思う。自分の思想と言葉の間に差を感じるのには、そもそも大したことを考えていない、思考をうまく言葉にできていない、自分がみずからの思想としっかり向き合っていないなど、いろいろな要因がある。

 

それでも、自分の思考を言葉にしないと、自分が何を考えていたかを忘れてしまう。また、自分の思考を言葉にしつづけることで、自分の言語能力が上がるということもあるだろう。そうなれば、思考の材料となる言葉が洗練され、より良い思考ができるようになる。そう信じて僕は恥を忍んで文章を書き続けている。

 

以上、『知的生産の技術』に関連して、自分の思ったことを書き連ねていった。もう半世紀以上前に書かれた本だが、いまだに色あせない良書だ。ぜひ読んでいただきたい。