かくのごとく、我思えり

京大生が、本の感想や勉強のことを書いていきます。

僕たちの前には薄暗い路が断続している/読書感想文『トロッコ』

トロッコ/芥川龍之介

 

僕は芥川龍之介の作品をそんなに多く読んだわけではありませんが、今までに読んだ彼の作品のなかでは、『蜜柑』、『トロッコ』、『秋』が好きです。今回は、そのなかの『トロッコ』の感想を書いていきます。

 

まずはあらすじ。主人公の良平は、八歳のときに家の近くで行われていた工事の現場でトロッコに乗せてもらいます。以前から乗りたいと思っていたので最初は喜んで乗っていたのですが、やがて家から離れたところに来ると不安が募り始めます。トロッコを動かしていた土工たちと一緒にいればいずれは帰れると思っていましたが、道中で土工に「われはもう帰んな」と言われてしまいます。良平は土工と別れたあと、泣きたい気持ちをおさえて線路の側を走り続けます。良平はやっとの思いで家にたどり着くと、大声で泣き出しました。今では妻子を持ち校正の仕事をしている良平は、全然理由もないのにそのことを思い出すことがあります。塵労に疲れた彼の前には今でもあの坂や路が断続しています。

 

この話は、最後の部分がなければ少年の体験を描写した話ですが、現在の良平についての描写があることで作品の読み方がガラッと変わります。「あれ、『トロッコ』に成人した良平の記述なんてあったっけ?」という人もいるかもしれません。『トロッコ』は、昔は国語の教科書に必ずと言っていいほど載っていた話で、今でも載っている教科書はありますが、実は『トロッコ』が教科書に載る際には成人した良平の記述がカットされることが多いのです。確かに成人した良平の心情を読み解くことは子供にとっては難しいので、カットされるのも仕方ないのかもしれません。

 

この話を読み解くうえで大事なのは、現在の成人した良平にとって幼少期のトロッコの記憶が何を意味しているかということでしょう。ざっくりと分けてネガティブな解釈とポジティブな解釈が考えられます。

 

ネガティブな解釈は、トロッコの記憶は人生において苦しい経験をせざるを得ないことを意味しているというものです。以下は、国語の教科書ではカットされる『トロッコ』の最後の一節です。

 

良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。………… (太字引用者)

 

「薄暗い藪や坂のある路」というのは幼少期の良平が帰りに通った道ですが、これは現在の良平の目の前にどんなことが待ち構えているかということも意味しています。引用文中で太字にしたように、最後の一文にはネガティブな表現が相当使われています。ということは、現在の彼の目の前には苦労が待ち構えていると考えられます。

 

一方、ポジティブな解釈もあります。それは、塵労に疲れていて不安があろうとも路をたどっていけば救いがあるということをトロッコの記憶が意味しているという解釈です。幼少期の良平は土工と別れたあと、大きな不安を覚えながら必死に走ったが、逆に言えば線路をたどりさえすれば家族のいる家に帰って親の愛に触れることができた。このことを現在の良平に当てはめると、良平の目の前には多くの困難なことが待ち構えていて、良平は疲労感を覚えています。しかし、もしうまく成し遂げることができれば輝かしい未来が待っているということをトロッコの記憶が意味していると考えられるのではないでしょうか。この解釈はそう考えることができるというだけで、そう考えるべきだという根拠が本文中にあるわけではありません。それでも、そう考えても矛盾が生じないというのは読解するうえで面白いところではないでしょうか。

 

あと、『トロッコ』を読むうえで疑問に思ったことがあります。

 

しかしその記憶さえも、年ごとに色彩は薄れるらしい

 

これは、良平が一度トロッコに乗ることに失敗した箇所に書かれている文で、トロッコに乗ろうとした良平に対して怒鳴った土工に対する大人の良平の思いなのですが、この文を芥川が書いた意図がいまいち分かりません。『トロッコ』が大人の良平の回想であると分かるのが最後の方なので、もしかしたら『トロッコ』は良平の回想であると読者に意識させるためにさきほどの文を書いたのかもしれませんが、どうでしょう。何かご意見があったら、コメント等で教えてください。

 

以上、『トロッコ』の感想でした。この作品は青空文庫でも読むことができるので、ぜひご一読ください。