かくのごとく、我思えり

京大生が、本の感想や勉強のことを書いていきます。

過去はもう実在しない/読書感想文『幸福論』

幸福論/アラン(神谷幹夫訳)/岩波文庫

 

こんばんは、京大生ブロガーの工藤冬樹です。

今回は、三大幸福論のうち、アランの書いた『幸福論』の感想を記していこうと思います。

 

この本は93のプロポ(哲学断章)から成り立っており、その中でアランは情念にとらわれるべきでないと主張します。そして情念を制御する手段としての礼儀作法の重要性を指摘します。

 

p.88にはこう書いてあります。

 

われわれのあやまちは、われわれよりも先に消え去るのだ。それをミイラにして保存するのはやめよう。

 

これは自分の過去の過ちにとらえられて、「僕は過去にこんな失敗をした。だからこれからも失敗し続ける運命にあるんだ」と思い込んでしまうことです。これを読んだとき、僕は自分のことを言われているような気がしました。僕も、自分は努力が続かず人とコミュニケーションをとるのが苦手な人間であり、これからもそうして人生を歩んでいくのだろうと考えていたからです。しかしよく考えてみると、僕にだって努力が続いたこともあったし、ごくわずかながら友人もいます。それなのに、失敗したことだけを根拠にして自分は失敗する運命にあると思い込んでいるのは、もしかしたらそれを改善する努力をしない言い訳を作ろうとしているからかもしれません。僕はコミュニケーション能力を上げたいと思いつつも、人と接するのをできるだけ避けようとしていました。おそらく人と接するのは疲れるし、嫌われるのも嫌だったからでしょう。そんな自分を肯定するために、「自分はコミュニケーションが苦手だから仕方がない」という運命論を用いていました。でもそんなのはただの甘えにすぎません。

 

アランは、過去にとらわれることの無意味さをp.178でも主張しています。

 

われわれが耐えねばならないのは現在だけである。過去も未来もわれわれを押しつぶすことはできない。なぜなら、過去はもう実在しないし、未来はまだ存在しないのだから

 

今のダメな自分を肯定するのに過去の自分を利用しても何の意味もありません。運命論的な思考から脱していけたらよいと思いました。

 

また、p.112の言説も心に響きました。

 

知りすぎている人たちとではなんと暮らしにくいことだろう。自分のことを嘆くのに慎みがないから、そのため小さな不幸を大げさに言っている。相手だって同じである。相手の行為や言葉や気持ちに対してすぐに文句を言う。情念の爆発を押さえないのだ。くだらぬことで怒り出す。相手の親切や愛情や寛容を頼りすぎているのだ。自分のことを知られすぎていて、気どることもないのだ。こういう四六時中気がねなしの態度では、かえってそれがうそになる。すべてを誇張してしまう。そこから、どんなに気持ちの合った家族のあいだでもびっくりするような棘々しい口調や乱暴な身ぶりが出てくる。礼儀作法や儀式は人の思っている以上に有益なものだ

 

けだし至言だと思わずにはいられませんでした。確かに僕も同級生には絶対に言わないようなことでも、家族に対しては平然と言ってしまうことが多々あります。反省しきりです。「親しき中にも礼儀あり」とはうまく言ったものですね。