かくのごとく、我思えり

京大生が、本の感想や勉強のことを書いていきます。

ソクラテスはなぜしつこいか?/読書感想文『ゴルギアス』

『ゴルギアス』 プラトン 著/岩波文庫

 

この本は古代ギリシアの哲学者で、プラトンの師であるソクラテスの対話が描かれています。対話の主な相手はソフィストのゴルギアスです。ソフィストというのは古代ギリシアで弁論術などを教えた職業的教育者です。最も名が知られているソフィストはプロタゴラスでしょう。「人間は万物の尺度」という彼の言葉は有名です。

 

冒頭を読んで最初に僕が抱いた感想は、「ソクラテスうざいなあ」でした(笑)。だってそうでしょう。以下はpp.20-21に描かれているソクラテスとゴルギアスの対話を僕なりにまとめたものです。

 

ソクラテス「あなたが得意とする弁論術は何に関する技術か?」

ゴルギアス「言論に関する技術だ」

ソクラテス「しかし医術が、病人がどのように養生すれば健康になれるかということを明らかにする言論であるように、あらゆる技術が言論と関係があるではないか。それなのにどうしてそれらは弁論術とはいわないのか?」

ゴルギアス「弁論術以外のもろもろの技術の場合には、その知識が手仕事などの行為にかかわるものである。それに反して弁論術には手仕事でなされるものはなくて、技術の働きと目的の達成とは、すべて言論を通してなされる。だから弁論の技術こそ言論に関するものである」

ソクラテス「しかし計算術や幾何学はほとんど言論によってなされているではないか」

 

皆さんはどう感じましたか。僕は「ソクラテスはいちいち細かいなあ」と思わずにはいられませんでした。その認識が変わったのが、p.48でのソクラテスの発言です。

 

ところで、そういうわたしとは、どんな人間であるかといえば、もしわたしの言っていることに何か間違いでもあれば、こころよく反駁を受けるし、他方また、ひとの言っていることに何か本当でない点があれば、よろこんで反駁するような、とは言っても、反駁を受けることが、反駁することに比べて、少しも不愉快にはならないような、そういう人間なのです。なぜなら、反駁を受けることのほうが、より大きな善であるとわたしは考えているからです。それは、自分自身が最大の害悪から解放されるほうが、他の人をそれから解放するよりも、より善いことであるのとちょうど同じ程度に、そうだからです。というのは、いまちょうどわたしたちが論じ合っている事柄について間違った考えをもつことほど、人間に取って大きな害悪になることは、何もないと思うからです。 (太字引用者)

この部分を読むまで、ソクラテスはアテネの重鎮であるゴルギアスに対して重箱の隅をつつくような指摘をして自分の賢明さを誇示しているような気がしたのです。皆さんの周りにも、やたらと細かい反論をして自分の無謬性をアピールしようとする人がいませんか。ソクラテスもそのような人間の一人だと思っていました。ですが、この部分を読んで、ソクラテスの真の目的は議論を通して善を目指すことであると知りました。この、議論を通じて何か良いものを作り上げるという姿勢は、言われてみれば議論をするうえで当然大事なことではあるのですが、僕は目から鱗が落ちたような気がしました。というのも、議論というと、できるだけ完璧な理論を作り上げて、他の人が反論しようものなら、徹底的にねじ伏せて自分の正しさを証明する。そのようなものだと思い込んでいたからです。

 

このように、ソクラテスは善に達することをとても重要視する人物です。その姿勢はpp.112-113にも表れています。

 

ソクラテス「裁きを受けるということは、何かをされることかね、それとも、することかね、どちらだろう?」

ポロス「それは決まっています。ソクラテス、されるのです」ソクラテス「では、されるのであれば、誰かする人によって、そうされるのではないか」

ポロス「もちろんです、懲らしめる人によってです」

ソクラテス「ところで、しかるべく懲らしめる人は、正義に従って懲らしめるのだね?」

ポロス「そうです」

ソクラテス「それは、正しいことをすることによってかね、それとも、そうではなしにか」

ポロス「正しいことをすることによってです」

ソクラテス「そうすると、懲らしめられる者は、裁きを受けることによって、正しいことをされるのではないか」

ポロス「明らかに、そうです」

ソクラテス「ところで、正しいことは、美しいことであると同意されていたはずだが」

ポロス「たしかに」

ソクラテス「そうすると、それら両者の間において、一方、正しいことをする人のほうは、美しいことをするのだし、他方、それをされる人、つまり懲らしめられる人のほうは、美しいことをされるわけだ」

ポロス「そうです」

ソクラテス「それでは、もしも美しいことをされるのだとすると、善い(ためになる)ことをされるのではないかね。というのも、美しいことは、快いことか、有益なことか、(それともその両方か)、そのうちのどれかであり、(しかも、懲らしめられることは、快いことではないはずだから)。

ポロス「それは必然にそうなります」

ソクラテス「してみると、裁きを受ける人は、善いことをされるのだね?」

ポロス「そうらしいです」

ソクラテス「したがって、利益を受けるわけだね?」

ポロス「ええ」                      (太字引用者)

 

 

上記は、裁きを受けなければ不正を行っているものが幸福になると主張するポロスに対して、不正を行っていながら裁きを受けない人間が一番不幸であるとソクラテスが反駁する場面です。ポロスの意見を支持する人も多いのではないでしょうか。私もそう思っていました。それだけに、不正を行っているものは快楽のみを手に入れており決して善には向かっていない、だから不幸であるという議論は新鮮でした。

 

このあともソクラテスは、市民を善に導くことができる政治家が良い政治家である、といったように善を最大の目標に置いた主張をします。

 

僕は、ソクラテスの主張に完全に賛成しているわけではありません。そもそも善とは何であるかもいまいち釈然としません。ソクラテスの入門書を見ると、「善とは魂を善くすることである」と書かれていたりしますが、魂を善くするとは何かという疑問はぬぐえません。それでも、善を指針に生きるソクラテスの姿は素敵だと思います。僕も自分なりの善を見つけて、それを指針に生きていけたらよいと思いました。また、僕の誤りを指摘して、僕を正そうとしてくれる人を大切にしていこうと思います。